本日未明、神奈川県相模原市で悲惨な事件がありました。

これまでに、様々な情報が出てきており、それについては、ぼくが伝えなくても、多くの方々がテレビを中心とした様々なメディアで接していると思います。

しかしふと、ある情報が全然ないことに気づきました。
「被害者情報」です。

「20代から80代の19人」

というくらいの情報は報じられているようですが、それ以上はまだです。



まだ情報がないから出せないのか、あるけど出さないのか、出すつもりがないから情報を取りに行ってないのかはわかりませんが、事実として、現在ほとんど情報は出ていません。

メディアで働いている友人が何人かいますが、事件事故が起きたときに、顔写真をはじめ被害者の情報を集めるのは、(よしあしはさておき)真っ先に記者がすること、と聞いています。

名前を含め、これまで情報が出てきていないことは、今回の事件の特殊性を示す一端であると捉えてよいと思います。

ぼくは「情報を出すべき」と思っているのではありません。
むしろ、通常の被害者報道には、「ここまで取り上げる必要があるのか」と思うこともしばしばです。

だからこそ今回、「なぜ情報が出ていないのか」
その理由を考え、思いを巡らせ、想像することは、とても重要だと考えます。



記者の手元にも情報がないのであれば、行政や警察などから情報が出されないのはなぜか。
記者が情報を取りに行かない理由は何なのか。

もし情報を持っているのに出さないのだとしたら、それはなぜか。
その情報に報じる価値がないとメディアが考えているからか、視聴率が取れないと考えているからか、社会性が低いと考えているからか。

もしそういう情報が報じられたら、ぼくたち受け取る方がどう思うのか。
どういう社会的な影響があるのか、ないのか。



このブログでも何度も取り上げており、ぼくがいつも心に留めている言葉があります。
  • ユリウス・カエサルの言葉の中で、私が最も好きなのは次の一句である。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない
  • アウグストゥスは、見たいと欲する現実しか見ない人々に、それをそのままで見せるやり方を選んだのである。ただし、彼だけは、見たくない現実までも直視することを心しながら、目標の達成を期す。
ローマ人の物語14 ─パクス・ロマーナ〔上〕─  新潮社
もしかしたら「見たいだろう」とメディアや社会が考えるものしか、ぼくたちは見せられていないのかもしれません。

では。