624人、70%、6月20日。 この数字が何かご存知でしょうか?16日(火)の一般質問で、市議の星野さんからこんな投げかけがありました。 これは、70年前の豊橋空襲での、死者数624人、市街地の約70%が焼失、そして、6月19日深夜から20日未明に掛けて、空襲がありました。
豊橋のまちなか(駅前)が、戦争によって焼けて、戦後に区画整理が行われたことは、比較的知られていることですが、その日付6月20日などは、あまり知られていません。 6月20日にも、8月6日、9日、15日と同様に、サイレンなどを鳴らして、地域の歴史を意識してもらうという手もあるのではないか、という星野さんからのご提案は、恥ずかしながら日付を覚えていなかった僕も、思わずなるほど、と思いました。
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さて、その夜。
偶然にも、飲み屋にいた80歳を超えるご婦人が、そのときの様子を話してくれました。
今まで見た、どんな花火よりも綺麗だった。 今でもはっきりと覚えている。
「私のひな人形が燃えちゃうー」 蔵から火が出たのを、防空壕の中から見ながら、そう思ったわ。
夜中だったけど、道にダーっって人が並んで倒れていた。当時は10歳ほどの少女。
無邪気な感想が、逆に生生しく感じました。
「みーんな、燃えちゃったの。 でも吉田神社のとこだけは、焼けなかったの、関屋も。」
その話に、僕はハッとして、
-もしかして、商工会議所の辺りも燃えなかったんですか?
「うーん、そう。 石塚も残ったわね。」
-やっぱり・・・
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豊橋のまちなかは、空襲で焼かれ、戦後に区画整理が行われたので、古いまちなみや僕の好きな路地がほとんど残っていません。 その中で、数少ない路地が残っているのが、吉田神社を擁する関屋町と、商工会議所周辺の石塚です。
今日、改めて歩いて来ました。
まずは、関屋町の吉田神社。
下がってみる
横に入る道
先へ
もっと先へ
突き当りを左へ
先へ
違う道
突き当りを右へ
奥に見えるトラックが、国道1号線の橋。
更に奥へ
隠れ家的な、
お料理屋さん。
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続いて石塚へ
上って、振り返る
左の門の中へ
戻って先へ、右のフェンスの向こう側は線路。
道沿いに左へ
このクランクがやばい
素敵な佇まいのおうち
別の道。
左側は松葉小学校。右を上る
左奥へ。
進む
更に進む
右を見る
なんか戦前っぽいレンガ。 戻って、更に進む
右を見る
戻って、また進む
更に進む
ずんずん、
まだまだ、
ようやく、
おや?
まさか、
下って、振り返る。
たぶん、こちら側から入ろうという人はいない。
村田敬次郎さんという地元では有名な方のおうち(?)。 元・自治大臣。故人。
さっきの階段。
進んで、振り返る。
右奥に見える少し高い建物が、商工会議所。
実は、路地を進んで行く途中、こんなものが。
僕が豊橋で一番好きな路地。
今は、消防車が入れないとか防災上の理由などから、こういう細い道を新しく作れなくなったので、豊橋でわずかに焼けなかったこの路地が、できるだけ長く残ってくれたらいいなぁ。
では!