こんなつぶやきを見つけました。
頭で考える分には正なのですが、それでも違和感を感じ、僕が書いたコメントはこちら。
「その危険が自分たちにまで影響を及ぼすかどうか」を知るためなら、十分理由になるかと。噴火中の火口にまで行かなければ、噴火規模・想定被災地、今後の噴火予測が立たないなど。
この自分の中の違和感を大切にしたいので、もう少し考えてみました。



ジャーナリストが危険な現場に赴く理由として、好奇心や「そこに伝えたいことがあるから」といった、抽象的・哲学的な意見を聞くことがあります。 けれども、ヒトのこういう性質が一定残っているのは、もっと本能的な生存のための必然性があるんじゃないかと思いました。 学生のとき、進化や自然淘汰について学んでいたのですが、こんな考え方があります。
例えばサルやシカの群れでは、見張り役がある程度決まっていて、敵が近づいたのに気づくと警戒音を発するなどの目立つ行動をとる事で群れの他個体にこれを知らせる。(略)ただし、警戒を発する行動が、その個体にどの程度の危険を増やすかを見積もるのは難しい。(略)

ある局面でのその個体の不利益は、別の時には他個体が引き受けることで結果的には不利益を生じないのだという見方である。例えば群れの中での役割は、複数個体が交互にそれを行うことで、それぞれの個体は危険と利益を交互に受け取り、総合すればそれぞれの個体がある程度の利益を受けているのだと考えられる。

時間空間的に、どれほど先のことを危険と判断するか、そして、個人、家族、ご近所、村町、国・・・どの範囲で危険を共有したいかは個体によって変わってくるのかもしれませんが、早く危険を察知して、それを共有したいという本能は、大なり小なりヒトに備わっているものものではないかと。

体感としても、私はまち情報のフェイスブックページを管理しているのですが、台風などの災害情報は、より多くのシェアをされます。 この感覚が強いヒトが、現地まで危険を確認しに行く、そして多くのヒトに伝える、という役割を担っているのではないのかと。

区分がしにくいので、個体的な話とヒト社会的な話を敢えてごっちゃにしますが、個別の話は別に、こういう人たちが一定数いることが、より長期的に見て、できるだけ火の粉を避け、自分たちの生存に役立っていると思うのです。

では。