痛ましい事件が起きました。

 - 女性殺害:19歳女子名大生逮捕「人を殺してみたかった」 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/news/20150128k0000m040098000c.html

地元である愛知県の名門、名古屋大学の学生ということもあり、世間並み以上に気にしています。 この「人を殺してみたい」という感覚について、昨夜友人と話したのですが、その友人の「全然わからない」という意見が僕はわからなかったので、「あぁ、なるほど」と、ブログに書いてみようと思いました。



僕は、「人を殺してみたい」、という感情をなんとなく理解できます。 と書くと誤解されそうですが、僕が「人を殺してみたい」と思っているわけでなく、そういう感情を抱いている人が世間にいることについて、「そりゃ、いるだろう」という理解です。

小さな子どもが自発的に虫を殺す無邪気な残虐性や、少年漫画に快楽殺人者などが定番のキャラクターとして出てくることから、他の命を制御したいという感覚は、全く予想ができないほど突拍子もない感覚ではないと思うのです。

今、僕たちはきっと人類史上最も、普段の生活と死がかけ離れた時代と国にいます。 先日、たまたま点いていたテレビでは、子どもが帰宅したら母が自害しており、その敵を討ち、更に本人が切腹、と三者が立て続けに絶命しました。 また、国が変われば、生きるか死ぬかの瀬戸際の人質事件ニュースが連日テレビで放映されています。 「命は地球よりも重い」なんていうのは、ごくごく最近の言葉で、日本でも少し前まで、「お国のために」自らの命を賭した若者がたくさんいました。 そして今も海外にはいるようです。

人の命を奪うという行為は絶対悪である(少なくともそう思いたい)反面、人を殺したいという感情は、実は表に出ないだけで、言われているほど異常なものではないのではないかと思うのです。 だから、予防的な社会設計、あるいは、自身の行動としては、世間にそういう感覚が「ある」という前提でいないといけないのかな、と。 よりわかりやすい動機である恨みや怨恨、あるいは、人のものを奪うためではなく、純粋な好奇心(?)からの殺してみたいという欲求。 きっと、そういうものをお持ちの方のほとんどは別の形で発散され社会と折り合いをつけて日常生活を送られているのではないかと。 勝手な推測だけど、ある種の文学作品や芸術だったり。 あるいは、擬似的にそういう体験ができる仕事や遊戯など。



自分でも何が言いたいのかわからなくなってきたけど、今回の事件が多くの人に受け入れられない一方、忠臣蔵のように毎年のように多くの人を熱狂させる殺人もある。 一方で、殺人は最も重たい罪である反面、行為に移さなければ、思想良心の自由もある。

そんなことを考えていたら、このエントリーを思い出しました。

 - あなたの判断基準は「動機」? それとも 「行為」? - Chikirinの日記 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20141106

逆に考えれば、自分が何もしていなくても運わるく殺されてしまうかもしれないのだから、少なくとも人から恨まれるようなことはなるべくしないよう・・・

では。