昨夜飲み屋にいたら、NHKラジオが「明日は阪神淡路大震災から20年」という放送をしていました。 そしたら、そこにいた80歳のおばあちゃんが、「あぁ、三河地震ももう70年ね」とか言い出し、こっちは「なにそれ!?」なわけです。
愛知県内で2306人が犠牲になった三河地震から13日で、70年を迎えた。(略)
 
三河地震は1945年1月13日午前3時38分に県東部で起きた。内陸の活断層による直下型地震で、マグニチュードは6・8。県内では住宅約2万4千戸が全半壊した。

 - 愛知)三河地震70年、恐怖忘れない 2306人死亡 - 朝日新聞デジタル http://t.asahi.com/h0ac
ゆっても僕、優等生だったんです。 授業もまじめに聞いていました(小学生のときは)。 その僕が、初めて知ったということは、学校では教えていないんですね。 少なくとも僕の印象に残る程度には。 戦前の、神野新田の開拓話はたくさんするのに。
三河地震(みかわじしん)は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8の直下型地震である。 また、1945年の終戦前後にかけて4年連続で1000人を超える死者を出した4大地震(鳥取地震、東南海地震、南海地震)の一つである。(略)

震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。(略)

震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4311戸とされる[7]。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡と碧海郡で死者2,652人に達したという[8]。一方、明治航空基地では顕著な被害は記録されていない。

むう。

そのおばあちゃんから聞いた、このエピソードが印象的でした。
もうね、地割れが起きるっていうから、みんなで市電(路面電車)の線路の上に布団敷いて寝たの。 1月よ、寒くて寒くて。 今思えばおかしな話だけど、当時は情報がなくて、「線路の上なら地割れも大丈夫」みたいな話で。 みんなで、だーっと、布団を敷いて寝たのよ。
もし、この写真があれば、見てみたい。

来年からは、阪神淡路大震災を思い出すときは、いっしょに三河地震も思い出すことにします。

では。