僕のライバルである、御三家の小布施(長野)・海士町(島根)・神山町(徳島)への注目度が日に日に高まっています。

海士町、神山町へは、地方創生政務官(大臣、副大臣の次の人)である、小泉進次郎さんも訪問し、更に神山町には、霞が関のサテライト・オフィスができるとかなんとかで。

僕も豊橋にUターンし、2年半が過ぎました。 合格点くらいの実績は出していると思う反面、同じくらいの時間で、もっとガツンとやらかしてる諸先輩方が各地にいるので、焦ったりもするわけです。 小豆島のあの人とか、上田のあの人とか、岡崎のあの人とか。 僕の中では、みんな同士であり、ライバルです。 そんなときに、僕が最近、心で念じるのは、

焦るな。 焦るな、まだ豊橋に戻って2年半だ。



今の御三家につながる端緒がいつかを振り返る。

小布施は、1976年の北斎館と、1982年の高井鴻山記念館建設がきかっけとなった、まちなみ修景事業。 今から、40年近く前のこと。
◇景観づくりがライフワーク
 長野県北東部の小布施町(1万1500人)。老舗くり菓子屋「小布施堂」の副社長だった市村良三町長(いちむら・りょうぞう=63)は、約30年にわたり町の景観づくりに取り組んできた。昔は「客が来ない眠った町」(市村氏)だったが、菓子屋のかたわら、町づくり会社の運営や古い町並みを取り戻す「修景事業」に没頭。「住民も商売人もお客さんも一体化する混然とした回遊空間」を生み出し、今では年間120万人が訪れる県内有数の観光地となった。

 - トップインタビュー 市村良三・長野県小布施町長 http://www.jiji.com/jc/v2?id=20120112top_interview23_34 
「本当に豊かなコミュニティとは? より高い小布施文化のために」
―町並み修景事業は今でこそ各地で行われていますが、先駆的に始められたキッカケはなんでしょうか。
「昭和 56年、※高井鴻山記念館を造ろうという計画が持ち上がった時、ここら辺全部畑だったから、ただ記念館を造るだけじゃつまらないと言い出したんですよ。それで、国道403号線沿いの袋小路になった120m四方くらいのエリアを面白い空間にして、その中に記念館があればいいんじゃないかと社長から提案がありまして、それがキッカケですね。」 

 - 長野のエース 市村良三さん http://yassy.system-a.org/keiei/brand/index/ichimura/ichimura.htm 


海士町は、2002年に現町長である山内道雄さんの当選が、大きな転機。 10年ほど前。
2007年、北海道夕張市が財政再建団体へ移行するというニュースは話題を呼んだが、山内町長は驚かなかったという。どの地方自治体も、程度の差はあれども財政は苦しく、海士町も例外ではなかったのだ。山内町長が当選した2002年、海士町は平成の大合併の嵐が吹き荒れる中で離島が合併してもメリットがないと判断し、単独の道を選んだ。ところが、2003年の三位一体改革による「地財ショック」で地方交付税が削減され、国からの補助金も減少、公共事業を島の建設業が請け負って雇用を確保するというやり方が成り立たなくなってしまう。「2008年には海士町は財政再建団体へ転落する」。これが、当時のシミュレーションだった。

徹底した行財政改革を断行するには、自ら身を削らなければならない。そう考えた山内町長は当選後にまず、自分の給与カットに踏み切った。すると、職員たちが「自分たちの給与もカットしてほしい」と申し出てくれた。町議、教育委員も続いた。2005年、町長の給与は50%、助役、町議、教育委員は40%、職員は16%から30%とそれぞれカットし、2億円の人件費削減に成功した。海士町は「日本一給料の安い自治体」となったが、小さく守りに入ったわけではなかった。生き残りをかけ、ここから攻めに転じる。

 - 破綻寸前だった離島・島根県海士町に都会から人が集まる秘密 http://huff.to/1b9RjZK 
ここからが挑戦です。海士町は給与をカットして得た資金を元手に、最新の瞬間冷凍技術「CAS」の導入や産業創出への取り組みを始めたのです。(略)

 そのほかにも、
  • 海産物のブランド化 第三セクターの株式会社ふるさと海士を創業。全国、海外への地場産物販売を行い、事業計画を1年前倒して単年度黒字化することに成功。
  • ブランド牛の育成 農業特区を取って肉牛の業界に新たに参入。松坂牛に匹敵するレベルと評価される「隠岐牛」を飼育。
  • 独自販路の開拓 Uターン者が中心となって、海士いわがき生産株式会社を起業。養殖岩がきを東京のオイスターバーへ独自ルートで販売。
 などの海の幸・山の幸を生かした新商品開発や、CASを活用した販路拡大などを行ってきました。

 - 日本の元気ダマ:仕事を創りに帰りたい離島、海士町の挑戦 - ITmedia エグゼクティブ http://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1111/29/news004.html


神山町は、NPO法人グリーンバレー前夜、1990年代といった感じ。 ざっと20年。
地方部の人口減少が叫ばれるなか、増加に転じたまちがある。
徳島駅から車で40分ほどの山間部にある人口6300人のまち、徳島県神山町。
ここ神山は2011年度、転出者が139人に対し転入者が150人と、
町の制定以来初めて転出者が転入者を上回った。
こうして注目される神山の陰に、NPO法人グリーンバレーの姿がある。(略)

順調に政策が進んだ理由について大南さんは、
「1999年から始めた“アーティスト・イン・レジデンス”のノウハウがあったことが、
“ワーク・イン・レジデンス”の導入にうまくつながったんです」と言う。

 - 大南信也さん|徳島県 神山町|「Webマガジン コロカル」 http://colocal.jp/topics/lifestyle/people/20121022_12892.html
大南さん:グリーンバレーの始まりは1体の人形からでした。1927年にアメリカから日本に送られてきた友好親善の人形です。(略)

1990年になると、私の長男が幼稚園に行き始めたこともあって、PTAの会合に行くと廊下にその人形があったんですね。また、人形がパスポートを持っていて、そのパスポートに「ペンシルベニア州ウィルキンスバーグ」と出身地が書かれていました。63年前に送ってくれたものだから、当時10歳だと仮定すれば、今は73歳。「まだ生きておられるかもしれない」と思い、ウィルキンスバーグの市長さん宛てに手紙を送りました。

 - 「神山プロジェクト」の20年の軌跡から学ぶ、まちづくりに重要な4つの視点 http://huff.to/1sObVLW
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まちを変える、まちが変わるには本当に時間がかかる。 これは動きが見えてきてからだから、実際はその萌芽、例えば、キーマンである、市村さん・山内さん・大南さんのUターンなどは、もっと前からあった。

10年、20年、40年。
40歳、50歳、70歳。
焦るな、 焦るな、俺。

では。