とりしまに20ねん

 享保4(1719)年秋,新居(浜名郡新居町新居)泉町筒山五兵衛所有の廻船(かいせん)が仙台荒浜(宮城県亘理郡亘理町荒浜)から出発し,船頭左太夫はじめ乗組11人上乗1人,合計12人の乗船している大鹿丸が11月晦日(みそか),九十九里浜沖で遭難した。漂流56日の後,享保5(1720)年1月26日,鳥島と思われる島に漂着した。

 鳥島は火山島ではあるが温暖の地であるので,衣類には困らなかった。雪は降らず,雨は多かった。地震があり,大風もあった。海藻や鳥の卵を拾い,魚や鳥を捕り,食物とした。火打,鍋釜を使った。籾米を蒔いて米を作り,水は天水を貯めて飲んだ。鳥はいわゆる信天翁(あほうどり)だった。岩穴で居住生活を送った。

 3年間は12人残らず存命したが,やがて,9人が老病のように衰えて,身体が腫れたりして死んだ。甚八・仁三郎・平三郎の3人は20年間生きていた。元文4(1739)年3月29日,江戸堀江町の宮本善八船の17人が乗った伝馬が水を求めてこの島へ着いた。3人を加えた20人は元文4(1739)年4月27日出帆し,5月1日八丈島にたどり着いた。そして,3人は元文4(1739)年6月24日新居へ帰った。

 20年間無人島で生活したのは当時の最長記録で,8代将軍徳川吉宗にも知られ,吹上御殿で慰労の袷(あわせ)や帷子(かたびら)を与えられた。3人は吉田(豊橋)領主松平豊後守資訓からそれぞれ2人扶持を賜った。甚八は元文4(1739)年の11月20日67歳で死亡,仁三郎は寛保元(1741)年ごろ61歳で死亡,平三郎は寛延3(1750)年42歳で死亡した。その子孫は,今もシマトウサとかシマヘーベサという屋号で呼ばれている。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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