ぬかたけん

 額田県は,明治4(1871)年11月15日,廃藩置県後の大規模な府県の統廃合により,三河国内の10県を廃県し,三河国全域と尾張国知多郡を県域として成立した。石高は56万石であった。額田県庁を旧岡崎城内に置き,権令には名東県(徳島藩)出身で民部省など中央官僚の経歴をもつ林厚徳が任ぜられた。

 額田県政が本格的に始動したのは明治5(1872)年1月7日であった。県庁の機構は庶務,聴訟,租税,出納の4課からなり,官員は石高によって規制されたので定員は58人であった。そのうち地元出身者は3割強を占めた。額田県は明治5(1872)年11月,愛知県に合併するまでのわずか1年の県政ではあったが,現在判明するだけで布達は216件を数え,同時期の愛知県(合併前)の87件をはるかに上回っている。

 中でも「管内士族平民心得書」は,生活の細部について46項目にわたり,規範を説諭している。文明開化の風潮を反映して,古い習慣の否定など県政の啓発的姿勢がうかがわれる。また戸籍の作成,大区小区制の施行,学校の開設,博覧会の開催など愛知県政の基盤を培っていった。

 関連項目 - 大区小区制

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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