しんようていきち
昭和20(1945)年になると,米軍の日本本土上陸は必至の情勢となり,東三河も第73師団(怒部隊)を中心に防衛体勢がとられた。海軍も第4特攻戦隊を編成し,約50隻の特攻艇を三河湾および浜名湖の要地に分散配置した(司令部は鳥羽)。その基地の一つが豊橋の朝倉川左岸に設置された。特攻戦隊が有する水上特攻艇は,“震洋”と名づけられたベニア板張りのモーターボート(1.4t)であった。トラックのエンジンで走行し,速力は23ノットで,船首に250㎏の炸薬(さくやく)を装備した必死の特攻兵器であった。震洋艇には1型(1人乗り)と5型(2人乗り)があったが,同戦隊はすべて1型であった。
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豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。
このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm
では!
昭和20(1945)年になると,米軍の日本本土上陸は必至の情勢となり,東三河も第73師団(怒部隊)を中心に防衛体勢がとられた。海軍も第4特攻戦隊を編成し,約50隻の特攻艇を三河湾および浜名湖の要地に分散配置した(司令部は鳥羽)。その基地の一つが豊橋の朝倉川左岸に設置された。特攻戦隊が有する水上特攻艇は,“震洋”と名づけられたベニア板張りのモーターボート(1.4t)であった。トラックのエンジンで走行し,速力は23ノットで,船首に250㎏の炸薬(さくやく)を装備した必死の特攻兵器であった。震洋艇には1型(1人乗り)と5型(2人乗り)があったが,同戦隊はすべて1型であった。
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苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
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