とよはしふで

 豊橋筆は,幕末期下級武士の手内職とされていた。毛筆の将来性に着眼していたのは,渥美郡高足村の神官芳賀(はが)庄左衛門の息子の次郎吉だった。芳賀次郎吉は,吉田(豊橋)藩鉄砲組の下級武士で手内職として毛筆を作っていたが,廃藩によって東京に出て修業した。苦心研鑚(けんさん)の結果,これまでの花芯筆から水筆の製法に着手した。

 興隆を築いたのは,その弟子の佐野重作ともいわれる。佐野重作は,14か年の修業を終え,明治11(1878)年に豊橋市神明町で独立した。佐野重作は,軸にする青竹を嵩山(すせ)から買い求め,穂先の毛は,遠州や新城(しんしろ)方面などから仕入れ,従来の製法に改良を加えた独特の製法をとった。

 豊橋筆は,画家の渡辺小華も愛用したといわれるし,奈良の墨屋の助言で販路を東京に開拓したのが功を奏したともいわれる。筆職人の手作業・練り混ぜ方式によって作られる豊橋筆は,値段の割に品質が良いということで,全国的に声価が高い。

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豊橋市議の長坂です。
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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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