かんぜさこんだゆう

 能楽師・観世左近太夫は,美しい妓女(ぎじょ)を妻にして京都に住んでいたが,嫉妬深い妻に愛想を尽かし,元亀2(1571)年,浜松に夜逃げした。天正元(1573)年,吉田(豊橋)の猿屋小路(豊橋市新吉町付近)に移り,謡曲の師匠として生計を立てていた。天正5(1577)年1月29日の朝,雨戸が開いていないのを不審に思った近所の人がこじ開けてみると,左近太夫が血まみれになって死んでいた。墓は近所の人たちの手によって,竜拈寺(りゅうねんじ)(豊橋市新吉町)門前の松林に建てられた。その年の2月下旬,妻と名乗る女が尋ねてきたので,亡くなった時の様子を話してやった。女は,「私は夫に捨てられた後,わが身を嘆き夫を恨みつつくらしておりましたが,ある日,嫉妬のあまり鬼女となって夫を食い殺した夢を見て目が覚めました。夫の身が心配になり,探し回って尋ねてきたのに,私が悪夢を見た日に夫が死んでいたとは・・・」と悔悟の涙を流した。女は墓前で黒髪を切り落とし,尼となって夫の菩提(ぼだい)を弔ったという。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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