もぐさそうどう

 藻草騒動は,天保14(1843)年,大崎村と東植田村,西植田村,野依(のより)村,仏飼(ぶっしょう)村,切反ヶ谷(きったがや)村の5か村が藻草場入会(いりあい)の件で争った事件である。取調べの結果関係する文書がないことで,5か村の入会は認められないと決定した。しかし,5か村側では長年にわたって藻草を取っていたのが,今後取れなくなるので,天保15(1844)年,訴え出た。

 天保15(1844)年9月,評定所から東植田村庄屋が呼び出され事情を聞かれたが,済口証文が優先され言い分は通らなかった。そこで,寛文11(1671)年の大津・大崎の境目争論絵図には,藻草入会のことが書いてないのは当方の秣(まぐさ)入会と同じで書いてないことを採用するのはおかしい。藻草運上を大崎が納めているといっているが,入会運上を5か村で納めていて同じことであることなどを話したが,5か村側の言い分は通らない。裁許を願うなら前と同様にするといわれ,大崎村と話し合いをするしかなかった。

 弘化2(1845)年5月に入ると国元から「大崎だけで藻草の口開けをした」と急報があり抗議した。8月になり大崎村が「1軒2人まで入会を認めよう」と少し折れた。しかし,5か村側は承知せず,弘化2(1845)年10月5か村側を白洲へ呼び出し,相手と交渉し,その結果を返答せよと命令した。国元の者に相談の上返事しますと応え,国元へ吟味の状況を知らせると,弘化2(1845)年11月「承知できぬ」との返事だった。そこで,阿部伊勢守に駕籠訴(かごそ)をすると,事情を聞いてくれた。

 弘化3(1846)年2月出府し,4月になり呼び出しがあり,役人も代わり初めから詳細に事情を聞いて,この件には,証拠となる書類がなく,前例もはっきりしない,国元から牟呂村と草間村の庄屋を参考人として呼び寄せ,閏5月3日に運上米の有無,口明廻状の仕来り,梅田川の藻草の生育状況などについて証言をした。その結果,寛文の絵図は今度の争論の証拠として適当ではないと,前の済口証文を破棄し争論前の状態に戻し,弘化3(1846)年12月,4年がかりの争いは終わった。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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