ほへいだい18れんたい

 歩兵第18聯隊は,軍備拡張10か年計画によって,明治17(1884)年8月15日,名古屋鎮台歩兵第6聯隊内で創設された。明治18(1885)年にかけて豊橋吉田城址(じょうし)に移営,屯営とした。当初,三遠駿豆,のち主として三遠地区を徴兵管区として壮丁が徴集され,2~3年軍務に服した。明治21(1888)年からは第3師団(一時第15師団)管下にあり,日清戦争には元山支隊として,日露戦争には南山,遼陽,奉天に戦い,第1次北満派遣,山東出兵,第2次北満派遣の戦歴を重ねた。さらに昭和12(1937)年からの日華事変には中国上海・徐州・漢口・宜昌・長沙・浙かん等の各作戦に参加,再び母営に還ることなく,5年間にわたって大陸に転戦した。

 昭和17(1942)年9月関東軍第29師団に転じ,満州第647部隊と称し,海城に駐屯した。海城は日清,日露の役に苦闘した聯隊の故地であった。第2次世界大戦末期,戦局悪化,絶対国防圏が設定されると,師団はマリアナ諸島に展開することになった。昭和19(1944)年2月11日聯隊に動員下令,重装備の聯隊将兵4000人の乗船していた輸送船崎戸丸は同19(44)年2月29日,23°41′N,131°52′E付近で被雷,聯隊長以下1646人が海没した。残存将兵は「雷」部隊と称し,一部は同19(44)年6月15日サイパン島で,主力は同19(44)年7月25日軍旗を奉焼,グアム島で,共に玉砕した。

 聯隊創設以来60年,在営した若者およそ6万余,7度外征に赴き,およそ1万の将兵が戦没した。「18聯隊」と呼ばれて,郷土と深くかかわり,親しまれたが,その最期は悲劇の聯隊であった。豊橋公園入口に営門の残影が,吉田(豊橋)城本丸近くに「歩兵第十八聯隊趾」の碑が建立されている。

 歩兵第18聯隊兵舎は昭和12(1937)年8月出征後は聯隊補充隊・中部第62部隊として兵員補充,中部第100部隊として飛行場設定部隊の兵舎となり,第2次世界大戦後,豊橋市役所庁舎,学校,豊橋公園となった。

 関連項目 - 「歩兵第18聯隊史」(兵東政夫)

- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。

このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html 
豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm 

では!