しょうりんじ(まつやま)

 飽海山(橋北山)正林寺(曹洞宗)の創立は,弘長2(1262)年平重盛の養女栄耀尼(えいように)により創建された臨済宗寺院である。千体骨地蔵尊を本尊とする。正林寺の縁起(えんぎ)には「栄耀尼は,筑紫の地頭原田種猶に嫁し,一子花若丸を得た。原田種猶は由井ヶ浜の戦いに破れ,鎌倉に捕らわれの身となったが,栄耀尼と花若丸が,戦場に散乱する骨を集め千体骨地蔵を作って,鎌倉を巡礼した功徳により免罪となる。原田種猶は改めて三州足助の地頭となり,その地に向かいつつ,これ偏(ひとえ)に花若の孝心と地蔵尊の加護の賜物(たまもの)であるとして,一寺の建立を思い立ち,三州飽海庄で海岸沿いの花ヶ崎(豊橋市松山町)に伽藍(がらん)を建立した云々」とある。

 その後,総持寺2世峩山禅師の孫弟子梅山聞本和尚を請して再興開山とし,曹洞宗となった。後に竜拈寺4世休屋宗官和尚を開闢(かいびゃく)開山として,竜拈寺(りゅうねんじ)の末寺となった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に,花ヶ崎村「橋北山松林寺,吉田竜拈寺末寺,平僧,客殿六間半・四間半,寺領三石目,伊奈備前守様御証文有之」とある。

 「三河国二葉松」(元文5年)に「花ヶ崎村,黒印三石,禅宗曹洞派,本寺吉田竜拈寺,橋北山正林寺」とある。山号の飽海山は創立当時の地名によるもので,橋北山は柳生川造堤のころ橋北にあったからだといわれている。昭和20(1945)年6月の空襲によって全山焼失した。昭和24(1949)年庫裏兼保育園園舎を新築して正林寺保育園を開設し,同27(52)年本堂を建立した。

 関連項目 - 千体骨地蔵(民話)

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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