ほりょしゅうようじょ

 日清戦争の捕虜で内地収容の者は,将校以下1004人に及び,11か所に約100人ずつ収容した。豊橋では竜拈寺(りゅうねんじ)の羅漢堂に収容され,豊橋市民が弁髪の中国人を見物に行き,筆談したなどの記録がある。日清講和条約成立後,明治28(1895)年8月12日,豊橋に収容された俘虜(ふりょ)100人は神戸から太沽(たーくー)(中国天津市)に帰国した。その中で1人,豊橋で死去した清国俘虜張四元の墓が豊橋陸軍墓地に建てられている。

 日露戦争では多数のロシア軍の捕虜があり,俘虜収容所が明治37(1904)年3月4日,まず松山に開設され,合計29収容所が開設された。明治38(1905)年2月1日,第11番目の俘虜収容所として悟真寺に将校40人,高師原軍用地に豊橋俘虜収容所高師原収容場を建設して,下士・卒俘虜800人を収容した。ポーツマス講和条約成立後の明治38(1905)年11月神戸,12月四日市に向けて送還され,同38(05)年12月26日豊橋俘虜収容所は閉鎖された。高師原収容場の施設はその後,陸軍演習廠舎(しょうしゃ)に転用された。豊橋俘虜収容所で死没した俘虜2人は,豊橋陸軍墓地に埋葬されたが,明治42(1909)年改葬された。うち1人の墓碑銘が豊橋ハリストス正教会に残された。

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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