うたせあみじけん

 打瀬網事件は,明治25(1892)年2月29日,渥美郡細谷,小沢,高根の表浜3か村の地引網漁業の漁師700人が決起し,打瀬網禁止の断行を要請して渥美郡長松井譲に面会を強要,渥美郡役所に乱入して暴力を振った事件である。豊橋警察署と豊橋憲兵隊は,これを鎮圧し,首謀者の朝倉幾太郎(小沢村)ら200余人を兇徒嘯集罪(きょうとしょうしゅうざい)で検挙した。

 打瀬網漁は,明治初期から伊勢湾口・渥美半島表浜に出漁し,帆船の機動性を発揮して漁獲量の拡大を計っていた。一方従来からの地曳網漁法は,網を引き上げる相応の砂浜の面積と人手が必須の条件となり,網の延長には限界があった。したがって打瀬網漁法が盛況になるにつれ,反対運動の機運はいっそう高まった。愛知県は,明治19(1886)年3月に,来る同22(89)年3月に限って,打瀬網とその類似漁具を禁止する旨を布告した。しかし,実質的に打瀬網漁法の漁民は増加していたため,明治24(91)年12月31日まで,禁止期日を再延長した。その結果,沿岸漁民の賛否両派の対立が生じ,幾度かの騒擾(そうじょう)事件を繰り返していた。

 打瀬網事件は,予審で60人が免訴されたが,翌明治25(1892)年7月5日名古屋地方裁判所で判決があり,首魁(しゅかい)者朝倉幾太郎ら3人は重禁固2年6か月,10人の教唆者は重禁固2年3か月から2年,150人の付和随行者は罰金5円から2円に処せられた。明治33(1900)年3月愛知県は愛知県令で打瀬網の漁業禁止区域を設定するとともに,打瀬網禁止の布告を廃して,同19(86)年以来の紛争の解決を図った。

 関連項目 - 地引網

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このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
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