しせいしこう

 豊橋町が市制を施行したのは,明治39(1906)年8月1日であった。全国で62番目,県内で名古屋に次ぐ2番目の市であった。市制施行の動きは,明治34(1901)年2月,福谷元次町長の時代に町政刷新に関する委員会が設置され,同34(01)年9月に「市制に関する調査概要」が報告されたことに始まった。中心に立ったのは,県会議員大口喜六であった。当時の豊橋の政財界は,大口喜六・三浦碧水を盟主とする同志派と,遠藤安太郎・近藤寿市郎が率いる実業派が勢力を二分して事ごとに対立していた。同志派は市制推進論を唱え,実業派は市制尚早論を主張して真っ向から対立していた。

 明治35(1902)年8月,大口喜六は豊橋町長に就任すると,市制実施の意見書を町会に提出した。町会では2度にわたり採決したが,2度とも可否同数となったため,大口町長の採決で議決し,明治35(1902)年11月市制実施の意見書を愛知県知事および内務大臣に提出した。この年の秋は,「参陽新報」が同志派,「新朝報」が実業派に組してそれぞれの論調を展開し,またそれぞれの市民大会を開くなど市制施行問題は市民を巻き込んでの大騒動となっていった。日露戦争の勃発により市制施行問題は一時中断されたが,日露戦争後の明治39(1906)年7月に豊橋町を市制施行地に指定する内務省告示が出されるにおよんで市制施行問題は一挙に解決した。明治39(1906)年7月16日,豊橋町は花田村・豊岡村を合併し,同年8月1日市制を施行した。明治40(1907)年1月初代豊橋市長に大口喜六が就任した。ちなみに世帯数9900,人口3万7635(男1万8325,女1万9310)であった。

- -
豊橋市議の長坂です。
豊橋のことをお調べくださり、ありがとうございます。

このページは、2006年12月発刊の豊橋百科事典を元に作成しています。
苦節5年半「豊橋百科事典」とうとうオープンデータ化! - 愛知豊橋市長坂なおと のblog
http://nagasakanaoto.blog.jp/210125.html 
豊橋百科事典については、下記の豊橋市サイトからもご覧いただけます。
https://www.city.toyohashi.lg.jp/14682.htm 

では!